法 話
心の財
今月の聖語
人身は持がたし、艸の上の露
『崇峻天皇御書』
日蓮大聖人は、人の一生というものは朝日と共に消えてしまう草の上の露のように、儚いものであるからこそ人生の一瞬一瞬、人の命がどれほどかけがえのないものかを示され、人生は長い短いが尊さの基準ではなく、それをいかに内容あるものとするかが大切である。どれだけ生きたかではなく、どのように生きたかが大切あると言われています。
昨今の感染症や経済の不安、思いもよらない災害の発生の中、私たちはどのようにこのかけがえのない人生を生きればよいのでしょう。
続く文章で日蓮大聖人はさらに、人生における重要な価値基準を示され、それが「蔵の財よりも身の財すぐれたり身の財より心の財第一なり」との一節です。 大聖人はこの3つの中で、「心の財」こそ最高の宝であり、それを積むことが人生の根本目的であると述べられています。
「蔵の財」とは、お金や土地などの財産のこと。
「身の財」とは、健康や才能、身に付けた技術のことです。
「心の財」とは、生きている間に積んだ功徳。つまりは心の豊かさのことであります。他の人たちの為にどれだけ善い行いをし、自らの精神的・人間的にどれほど成長させたかという事であります。
不安な世の中、私たちは地位や名誉お金、また健康や命の長短を他者と比較し、なぜ自分だけが不幸なのであるのかと嘆き、それを誰かの責任にしてしまう事もあります。
例え財や健康を得たとしても、そこに心の安心がなければ虚しくこの生を過ごすだけであります。
しかし、財や健康に難があっても、日々の命・他者から支えられている事への感謝を抱いて生きれば、自然と笑顔が増え日々充実した幸せな人生であります。
この儚きもかけがえのない貴重な人生。日々の感謝で心の財を積み、笑顔あふれる心の安心な世界の輪を弘げて行きましょう
言辞施(ごんじせ) ~ありがとうを伝える~
以前に法事を行った方から頂いたお手紙に、「父の法事の時に、“ありがとう”を大切にして下さいとおっしゃられた言葉、私はその言葉を今でも大切にしていますよ」と、亡くなったお父さんとの思い出が綴られていました。
その方の父親は亡くなるまで、介護が必要な期間が長く、いつも「すまないね」「すみません」と言っていたそうです。
その言葉を聞く度に「やって当たり前だから気にしないで」と言っていたそうですが、何かモヤモヤしたものも積み重なっていくのを感じていたそうです。
いよいよ最後という時、病床で父親は「今までありがとう」と、その方へ伝えたそうです。
その言葉を聞いた時、心から救われた、報われたという気持ちになったそうです。
「すみません」と「ありがとう」は似たような言葉ですが、やはり全然違います。すみませんは謝罪の言葉、ありがとうは感謝の言葉です。私が法話の中で「ありがとうを大切に」とお話しした時、父親との思い出が蘇ってきて、深く心に残ったそうです。
仏教の教えの中に「言辞施」という布施の教えがあります。これは、言葉とはその一言で相手を喜ばせたり、逆に悲しませたりしてしまいます。ですから相手を思いやり、やさしい言葉で接し、「こんにちは」「ありがとう」「お世話になります」など、何事にもあいさつや感謝の言葉を伝え、言った自分も言われた相手も、心が暖かくなり幸せを弘め施す善行のことであります。
私たちは日常の中で「すみません」と、特に深く考えずに言う事が多くはないでしょうか?
周りの人に何か手助けをしてもらい「ありがとう」の代わりのように「すみません」と言ってしまいがちです。
しかしその言葉、使っている本人は感謝のつもりの「すみません」かもしれませんが、相手にはその気持ち伝わっていないかもしれませんね。
もし日常を振り返り「すみません」と多く使っているなと感じたら、その場面をすべて「ありがとうございます」に置き換えてみましょう。
必ず自分の気持ちも変わりますし、言われた相手も心の温度が上がるはずです。
「ありがとう」を伝えて、幸せの輪を広げていきましょう。
令和6年 新春のご挨拶
新年あけましておめでとうございます
新しい年になると誰しも、その年がどんな年になるのかと、思いを巡らせ「今年こそは最良の年であってほしい」という願いは皆共通ではないでしょうか。
ある生活総合研究所が、アンケートの中で「見えないけれど、見たいものは何ですか」と設問したところ、奇抜でおもしろい回答も数々あったなかで、意外にも多くあったのが、「他人から見た自分」だそうで、これも複雑な社会での気配りなのでしょうか。
そして、老・若年にかかわらず一番多かったのが「将来の自分」と答えた人だそうで、若い人は就職の不安を感じ、高齢者なりに老いることへの不安を象徴しているのかもしれません。
そんな時代こそ、新年を迎えて「一年の計は元旦にあり」で、新たな気持ちを大切にしたいものです。
正月三日間は「修正会(しゅうしょうえ)」と言って、どこの寺院も一年間のご祈祷をしますが、一般的には修正(しゅうせい)と読み、まちがいを修正して正しく生きることであり、一月のことを仏教の読み方に合わせて正月というのも、そうした深い意味が込められているのです。
新たとは「洗った」から変化した言葉のようですが、心を洗って新しい年を迎えるという決意の月が正月なのです。
そうした初めの心がけを、いつまでも忘れずに保ち続けてこそ、道は開かれるものですが、そのところを「平常心(びょうじょうしん)是(こ)れ道(どう)」と教えています。
本年もどうぞよろしくお願いいたします。
令和6年 甲辰(きのえ・たつ)年三碧木星中宮の全体運
甲(きのえ)
十干の「甲」は、十干の1番目最初にあたるものであり、生命や物事の始まりを意味するとともに、「鎧(冑よろい)・かぶと」を意味しており甲冑の「甲」から導かれた語です。
草木の種子が厚い皮をかぶっている状態を表しており、まだ発芽していない状態。春になると植物の種子は硬い殻をやぶって芽吹くことから「新たなはじまり」や「成長」の意味があります。
辰(たつ)
辰は「振(ふるう)」を表しており、陽気が動きそれにより自然万物が振動し、草木も伸長し形整い活力が旺盛になった状態を表しています。また辰は北極星を表し、重要さを表しています。
つまり、何事もグイグイ表面にあらわれ、良くも悪くも顕現化が促進されるでしょう
三碧木星中宮
本年は三碧木星が中心的存在として全ての事象へ影響を及ぼします。
三碧木星中宮の年は「驚き」の事象が強く現れます。
また、三碧木星は「音」を担いますから、驚かされる情報が飛び込んだり、偽りだらけの情報に驚かされたり、政治的には様々な主義主張の声が上がり、過熱していくと大きな混乱や争いに発展してしまう事が多い年でもあります。
自然的事象としては主に「雷」や「地震」で、それに加えて今年の十二支「辰」から得る地にも「振」の象意を所有しています。
この事から本年は、地震の防災対策を強化することをお勧めします。
この事から本年は、勉強や仕事、将来のために学び続けたことや、実直に育てたり身につけてきたことが、芽吹くと一気に大きな結果につながる、夢が実現する年となりそうです。その反面、努力やためてきたことが足りない人は結果につながらないけれども、その芽は着実に水面下で大きく、しっかりしたものに育てることができる年ともなりそうです。
また、大きな地震や自然災害が起こってしまった時の対策や、様々な偽りの情報に踊らされず、正しき情報を判断する慎重な判断力が大切な年でもあります。
現在の世の中を見回すと一見、酷い動乱の時代を生きているように感じるかもしれませんが、「夜明け前が一番暗い」状態なだけで開けぬ夜はありません。むしろ、明るい方向へ向かう兆しが始まります。
仏さまの教えを基にお題目の功徳で明るい未来への道への灯を強く閃かせ、正しく素晴らしい令和6年を共に歩みましょう。
新春初祈祷のご案内
心豊かに生きる為の「師」
弟子のしらぬ事を教たるが師
日蓮大聖人ご遺文「開目抄」
みなさんは「師」というと何を思い浮かべられるでしょうか?
学校の恩師であったり、習い事の先生や仕事の先輩など、年上の方や社会的地位の高い方を思い浮かべられる方が多いのではないでしょうか?
しかし「師」とは、年上の人や社会的地位の高い人であるとは限りません、あなたより若い人かもしれません。子供たちの素直な心から学ぶこと、自分が嫌だと思う事を行った人から学ぶ他者へに慈しみの大切さ。さらには「師」とは人に限った事ではありません。
何気ない山も川も天も地もすべて真理の現れであり、目に見えるすべてに仏性が宿っているのです。目に見えるもので不要なものはひとつもなく、全てが私たちに心豊かに生きるためのに仏さまが教えを示しているのです。
様々な活動の中で、ある障害を負った子供さんのお母さんの明るい笑顔に涙がでそうになったことがありました。彼女の笑顔の奥には、それを乗り越えるのにどれだけの苦しみを味わっただろうかと。
しかし、彼女から聞いた言葉は「障害を知った時は絶望で全てが暗く先が見えない状態でした。しかし、今笑顔でお話しできるのも、全てはこの子のお陰なのです。この障害を負ったからこそ、たくさんの人の優しさにふれつ事ができ、今までは見えていなかった小さな喜びも知ることができたのです。この子と一緒に私も成長させてもらってるのです」と。
どんな不幸も考え方、行いで人生を変えることができるのです。
今辛い方は、辛い方の気持ちがよくわかります。そういう人にしかできない助けもあります。
どんな状況であっても必ず私たちを心豊かな人生へと導く「師」である仏さまからの救いの手は差し出されています。
何気ない日常から師の教えを見つけ、心豊かな人生を送りましょう。