法 話
本当の幸せを見つける
最近、巷にあふれる「しあわせ」をよく目にする機会があります。
ポテトチップスの「しあわせバター味」。ポテトチップスの塩気にハチミツの甘味にバターのコク。新鮮でとても美味でありましたが、最近おなかが気になりだした私には少し罪悪感が・・・。スーパーの精肉売り場にも「しあわせ絆牛」の言葉も。美味しく肉じゃがでいただきました。
書店をのぞくと、棚にもたくさんの「しあわせ」「幸福」の指南本が多く並び、四方八方「しあわせ」に取り囲まれているようで、今すぐにでも「しあわせ」になれそうな高揚感が込み上げてきます。
世間では感染症、戦争、物価高と暗いニュースばかりの現代、名前やタイトルだけでもしあわせへと誘うものを手に入れて、良い気分に浸りたいという気持ちもよくわかります。
たしかに、美味しい食事をしている時には幸せな気分に浸れますし、しあわせの指南書を読み、その通りに何かを行えば、今すぐにでも自分が幸せになれる気になってまいります。
しかし、耳には心地良い「しあわせ」という響きでありますが、幸せの感じ方には人それぞれ違います。著者が著わす幸せになる方法や一時的な幸せは本当の「しあわせ」なのでしょうか?
今の苦しい世間や自身の状況から、私たちは安易な「しあわせ」を求めすぎたばかりに、幸せ願望に支配されてしまっているのではないでしょうか?
日蓮大聖人のお言葉に「この生を空しうすることなかれ」というお言葉があります。
時は鎌倉時代。まさに現代のように大きな自然災害や疫病の流行などの災害に次々と見舞われていた時代。今を生きることに苦しんでいる人々は、「念仏を唱えるだけで極楽浄土に往生する方が楽でいい」という安易なしあわせも求め、浄土教は広まっていました。
当時から法華経はもちろん伝わっていましたが、「あまりに深い真理を説いているため、常人には理解できない、難しく敷居の高い教え」としてあまり重要視されていなかったのです。
しかし、日蓮大聖人は全てのお釈迦さまの教えを深く読み研究された結果、『法華経』への信仰心を一瞬おこすだけでも絶大の功徳があると説かれ、世間で言われているような「あまりに深い真理を説いているため、常人には理解できない教え」などでは決してなく、それどころか誰にでも功徳をもたらしてくれる教えであると。その得難く甚大な功徳いただける「南無妙法蓮華経」のお題目を私たちにしめしてくださったのです。
さらには、永遠の仏さまはこの世にこそいらっしゃる。したがって真の浄土=仏の世界=しあわせな世界とは、我々が生きているこの世に他ならないのだ」とする『法華経』如来寿量品第十六のお釈迦さまの教えから、現世から逃避して極楽浄土に救いを求めるのではなく、現世でこそ本当の幸せの世界があるのだとおっしゃられております。
先程紹介いたしました「この生を空しうすることなかれ」とは、目の前の安易な楽を求めて本当に大切な事を見落としたまま過ごすことは、まさに貴重な生涯を空しく生きる事となってしまう。
本当の「しあわせ」とは、地位や名誉、物質的豊かさなどではなく、心身の安心であります。
日蓮聖人は『法華経を持ち奉るより外に遊楽はなし。・・・・・・ただ世間の留難来るとも、取りあへ給ふべからず。賢人・聖人も此の事はのがれず。ただ女房と酒うち飲みて、南無妙法蓮華経と唱へ給へ。苦をば苦と悟り、楽をば楽とひらき、苦楽ともに思ひ合わせて南無妙法蓮華経とうち唱へ居させ給へ』と言っておられます。
苦楽ともに受け止めて、お蔭様でと感謝していくことが幸せの源なのです。
父母への報恩
今月の聖語は上野殿御返事の「父母の恩のおもき事は大海のごとし」というお言葉です。
日蓮聖人の御遺文にはよく「恩」という言葉がでてきます。これは日蓮聖人が「恩」をとても大事にしていたからです。
恩とは「めぐみ」「いくつしみ」、あるものが他に生命を与えたり、その発展を助ける事であり、人はその恩を受けたり施したりして、その恩と密接にかかわってきました。そして日蓮聖人はその恩の中でも特に大切にしている四つの恩があります。その中の一つが父母に対する恩です。
各ご家庭にご先祖さまをはじめ、父母やご家族の精霊を迎える盆の季節が間もなくやってまいります。殊に新盆を迎えられる方から、「生前、もっと色々なことをしてあげたかったですよ。あまり親孝行ができず、それが心残りです」との言葉をよくお聞きします。
「親孝行したいときに親はなし」との言葉もありますが、では父母への孝養に篤かった日蓮大聖人はどの様におっしゃられているでしょうか?
十王讃歎抄にて「孝養に三種あり。衣食を施すを下品とし、父母の意に違わざるを中品とし、功徳を回向するを上品とす」とおっしゃられています。
生前、父母の生活の面倒などを見ることよりも、父母を安心させる生き方をする事が父母への孝養である。しかしもっとも重要なことは、父母が亡くなった後に丁寧に回向を捧げることが最上の親への孝養であるとおっしゃられています。
また、今月の聖語の一節の後には、私たちに命を与え育ててくれた父母へ生きている間に返せる恩は大海の中の1雫ほどである。父母亡き後に回向を捧げ続けることが本当の報恩であるとおっしゃられています。
先の話にあった、「親孝行したいときに親はなし」ではなく、本当の親孝行とは父母を亡くした後いかに供養・回向を行うかであるのです。
亡き精霊へ回向を捧げても、捧げずとも精霊からは何も聞くことはできません。しかし、何かを行って「ありがとう」の言葉を聞くから行うのではなく、本当の報恩とは何も言われず反応も無いけれども、自分の感謝の想いを行動にして行っていく事ではないでしょうか。
まだ、遅くはありません!本当の父母への、志す精霊への報恩の孝養を行っていきましょう。
人の幸せは自身の幸せである
昨今、新型コロナウィルスオミクロン株が爆発的に感染が拡大し、今日明日にでも蔓延防止措置や緊急事態宣言が発令されようと捨ている状況です。思えば約2年前の新型コロナウィルス感染拡大から私たちの生活スタイルなどは一変した方が多いのではないでしょうか?
マスクを着け、手指を消毒し、人との間隔を空ける。また外出する事自体が減っている方も多い事でしょう。多くの方がウィルスに対しての警戒を今まで以上に強くされていることでしょう。
しかし、感染力が強いウィルスが蔓延する中であっても、多くの人が密集する中でマスクを着けずに大声で騒いだりする人たちもしばしば報道で見受けられます。恐らくはその日・その時の楽しみを優先した行動であるのでしょう。そのような行動の結果、新型コロナウィルスに罹患した方も多くいると聞いております。
人それぞれに様々な事情があったことであろうと思うと、その行動の是非については問いませんが、はたしてそれは、自分が行う行動に対して受ける影響、または他者に与える影響までを考えた受けでの行動であったのでしょうか?今、自分がが楽しかったならば良いというだけの浅い考えのであった人も多くいられたのではないでしょうか?
色々な影響を深く考えたならば、その場は自分だけが罹患したとしても、その後家族や友人、職場の方々など多くの人に強い感染力のウィルスをうつしてしまうかもしれませんし、病院の方へまた、病院を必要としている方へも影響を与えてしまう可能性も大いに考えられます。それだけでなく、自身の命も脅かしてしまう事となってしまいます。
日蓮大聖人のお手紙の中のお言葉、「浅きを去りて深きに就くは丈夫の心なり」の通り、浅き(個)の幸せをとるのではなく、深き(全体・他者)の幸せを考え行動することが大切であり、すなわちそれは仏の心であると述べられています。
人を想い行動すること、それはすなわち自身の幸せにもつながっているという事を、今一度再確認させていただけるお言葉です。
大黒天神祭並びに星祭り祈願祭のご案内
幸多き1年の秘訣
燈は油をさせば光を増し、草木は雨ふればさかう、人は善根をなせば必ずさかう。 【上野殿御返事】
明けましておめでとうございます。本年が皆様にとって幸多き一年となりますようお祈りいたします。
昨年を振り返り、私が真っ先に思い出したのは東京オリンピックである。一日何時間にもおよぶつらい練習、コンマ数秒のタイムを削るため、あるいはより美しい演技のため、あるいは1mmでも遠くに飛ぶため、およそ私たちが普段の生活では意識したこともないようなところにまで神経を研ぎ澄ませた努力が実を結んだ瞬間があのオリンピックの舞台である。選手達の真剣な眼差しや躍動する姿はキラキラしていて、まさに光り輝いてみえた。
努力なしではあの舞台にはたてない。私たちが思い描く「幸多き一年」もそうだ。
日蓮大聖人は、人は良いことをすれば必ず栄えると指南されている。善は種となり、根っことなる。まずは種をまき、大地に根をはろう。根っこが伸び、芽が出て生長し、花がさき、やがて果実がみのる。私たちの種は、他を思いやり、慈しむことで根をはり、芽吹き生長する。植物のように目に見える果実になるのはいつになるかわからないが、人の内面は日々様々に成長していく。だからこそ、長い目でみて、怠らずに意識し、行い続けることが大事である。意識はやがて習慣となり、習慣は人生という果実を実らせる。
1年は1日の積み重ね、1日は現在(いま)の積み重ねである。現在(いま)を大切にし、善い行いを積み重ねることで人としての魅力がまし、キラキラと輝きを放つ。そんな素敵な人になれるよう努力する1年なら、それこそ素敵な1年に違いない。