法 話
言辞施(ごんじせ) ~ありがとうを伝える~
以前に法事を行った方から頂いたお手紙に、「父の法事の時に、“ありがとう”を大切にして下さいとおっしゃられた言葉、私はその言葉を今でも大切にしていますよ」と、亡くなったお父さんとの思い出が綴られていました。
その方の父親は亡くなるまで、介護が必要な期間が長く、いつも「すまないね」「すみません」と言っていたそうです。
その言葉を聞く度に「やって当たり前だから気にしないで」と言っていたそうですが、何かモヤモヤしたものも積み重なっていくのを感じていたそうです。
いよいよ最後という時、病床で父親は「今までありがとう」と、その方へ伝えたそうです。
その言葉を聞いた時、心から救われた、報われたという気持ちになったそうです。
「すみません」と「ありがとう」は似たような言葉ですが、やはり全然違います。すみませんは謝罪の言葉、ありがとうは感謝の言葉です。私が法話の中で「ありがとうを大切に」とお話しした時、父親との思い出が蘇ってきて、深く心に残ったそうです。
仏教の教えの中に「言辞施」という布施の教えがあります。これは、言葉とはその一言で相手を喜ばせたり、逆に悲しませたりしてしまいます。ですから相手を思いやり、やさしい言葉で接し、「こんにちは」「ありがとう」「お世話になります」など、何事にもあいさつや感謝の言葉を伝え、言った自分も言われた相手も、心が暖かくなり幸せを弘め施す善行のことであります。
私たちは日常の中で「すみません」と、特に深く考えずに言う事が多くはないでしょうか?
周りの人に何か手助けをしてもらい「ありがとう」の代わりのように「すみません」と言ってしまいがちです。
しかしその言葉、使っている本人は感謝のつもりの「すみません」かもしれませんが、相手にはその気持ち伝わっていないかもしれませんね。
もし日常を振り返り「すみません」と多く使っているなと感じたら、その場面をすべて「ありがとうございます」に置き換えてみましょう。
必ず自分の気持ちも変わりますし、言われた相手も心の温度が上がるはずです。
「ありがとう」を伝えて、幸せの輪を広げていきましょう。
本当の幸せを見つける
最近、巷にあふれる「しあわせ」をよく目にする機会があります。
ポテトチップスの「しあわせバター味」。ポテトチップスの塩気にハチミツの甘味にバターのコク。新鮮でとても美味でありましたが、最近おなかが気になりだした私には少し罪悪感が・・・。スーパーの精肉売り場にも「しあわせ絆牛」の言葉も。美味しく肉じゃがでいただきました。
書店をのぞくと、棚にもたくさんの「しあわせ」「幸福」の指南本が多く並び、四方八方「しあわせ」に取り囲まれているようで、今すぐにでも「しあわせ」になれそうな高揚感が込み上げてきます。
世間では感染症、戦争、物価高と暗いニュースばかりの現代、名前やタイトルだけでもしあわせへと誘うものを手に入れて、良い気分に浸りたいという気持ちもよくわかります。
たしかに、美味しい食事をしている時には幸せな気分に浸れますし、しあわせの指南書を読み、その通りに何かを行えば、今すぐにでも自分が幸せになれる気になってまいります。
しかし、耳には心地良い「しあわせ」という響きでありますが、幸せの感じ方には人それぞれ違います。著者が著わす幸せになる方法や一時的な幸せは本当の「しあわせ」なのでしょうか?
今の苦しい世間や自身の状況から、私たちは安易な「しあわせ」を求めすぎたばかりに、幸せ願望に支配されてしまっているのではないでしょうか?
日蓮大聖人のお言葉に「この生を空しうすることなかれ」というお言葉があります。
時は鎌倉時代。まさに現代のように大きな自然災害や疫病の流行などの災害に次々と見舞われていた時代。今を生きることに苦しんでいる人々は、「念仏を唱えるだけで極楽浄土に往生する方が楽でいい」という安易なしあわせも求め、浄土教は広まっていました。
当時から法華経はもちろん伝わっていましたが、「あまりに深い真理を説いているため、常人には理解できない、難しく敷居の高い教え」としてあまり重要視されていなかったのです。
しかし、日蓮大聖人は全てのお釈迦さまの教えを深く読み研究された結果、『法華経』への信仰心を一瞬おこすだけでも絶大の功徳があると説かれ、世間で言われているような「あまりに深い真理を説いているため、常人には理解できない教え」などでは決してなく、それどころか誰にでも功徳をもたらしてくれる教えであると。その得難く甚大な功徳いただける「南無妙法蓮華経」のお題目を私たちにしめしてくださったのです。
さらには、永遠の仏さまはこの世にこそいらっしゃる。したがって真の浄土=仏の世界=しあわせな世界とは、我々が生きているこの世に他ならないのだ」とする『法華経』如来寿量品第十六のお釈迦さまの教えから、現世から逃避して極楽浄土に救いを求めるのではなく、現世でこそ本当の幸せの世界があるのだとおっしゃられております。
先程紹介いたしました「この生を空しうすることなかれ」とは、目の前の安易な楽を求めて本当に大切な事を見落としたまま過ごすことは、まさに貴重な生涯を空しく生きる事となってしまう。
本当の「しあわせ」とは、地位や名誉、物質的豊かさなどではなく、心身の安心であります。
日蓮聖人は『法華経を持ち奉るより外に遊楽はなし。・・・・・・ただ世間の留難来るとも、取りあへ給ふべからず。賢人・聖人も此の事はのがれず。ただ女房と酒うち飲みて、南無妙法蓮華経と唱へ給へ。苦をば苦と悟り、楽をば楽とひらき、苦楽ともに思ひ合わせて南無妙法蓮華経とうち唱へ居させ給へ』と言っておられます。
苦楽ともに受け止めて、お蔭様でと感謝していくことが幸せの源なのです。
自分らしく 清らかに 前向きに
蓮の花のように生きる
「迷わないことが強さじゃくて、怖がらないことが強さじゃなくて、泣かないことが強さじゃなくて、本当の強さって、どんなことがあっても、前をむけることでしょ」。
「ムーミン」をご存じでしょうか。
フィンランドの作家トーベ・ヤンソンの原作になる小説で、アニメーションなど数次にわたって映像化もされていますので、親しみを感じておられる方も多いかと思います。
主人公「ムーミン」の友だちに「リトルミイ」という女性キャラクターが登場します。悪戯好きで騒動の切っ掛けになることも多いのですが、歯に衣着せぬ物言いをする正直者でもあります。
冒頭に引いたのは、そんなリトルミイの台詞です。
法華経、日蓮大聖人さまの教え、生き方に通ずるものがあると思うのですが、如何でしょうか。
法華経は、28品(章)から成り立っていますが、その15番目に「従地涌出品」があります。
この章には、この世界で一人ひとりが菩薩となって仏教を弘め、他人のために身を尽くす「利他行」の教えが説かれています。
その中に「不染世間法如蓮華在水」ということばがあります。「世間の法に染まざること、蓮華の水に在るが如し」と読みます。お釈迦さまが菩薩達に「蓮華のように生きなさい」と教えられた一節です。
「蓮華」の花は、仏教を象徴する高貴な花です。しかし、蓮華は清水の中で咲くのではなく、泥の中に育ってこそ、美しい花を咲かすのです。
同じように「世間」という、悪しきものが渦巻くなかでも、それに染まることない清らかな心を持って、自身をしっかり持った蓮華のような生き方をしなさい、とお釈迦さまは教えられたのです。
私たちは、時に人の噂や陰口などの雑音で心を乱されたりします。そして、自身の怒りの心・嫉む心・欲望に振り回される心によって、本来の自分の姿や進むべき道を見失ったりもするものです。
また人の良い所、煌びやかな所と自分の劣っている所を比べては「自分は不幸な人間だ」と言って卑下したり、劣等感を感じたりするものです。
そのような苦しみに生きるのではなく、欲望渦巻く世の中で、それに巻き込まれることなく、染まることなく、「自分らしく」「自分にしか歩めない道」を、蓮華のように清らかに、しっかりと歩んで行くこと。
それがお釈迦さまが教えられた「蓮華」のような菩薩の生き方です。これこそ、本来の心豊かな、そして真に強い人間の生き方ではないでしょうか。
恐ろしい事件などの報道を見る度、社会の悪しきものに染まらない、強い心を養うことが人間にとって大事であると感じます。
そんな時「不染世間法如蓮華在水」のお釈迦さまの声が深く響いてきます。
本当の強さとは、腕力でも、財力でも、名誉でもない。「如蓮華在水」のお経文のように「自分らしく、清らかに、前向きに」生きることが本当の強さではないかと考えます。
お釈迦さま・日蓮大聖人の教えによって、多くの方がが、素晴らしい人生を歩まれることを願って止みません。