法 話
幸せの支え合い
今月の聖語
檀那は油の如く、行者は燈の如し
『妙心尼御前御返事』
先日、ご供養を頼まれ頂いた住所をナビに入力し向かっておりましたが、ナビからは目的地に到着しましたとアナウンスが流れますが、周りを見渡すと一面田畑。時間もせまっており焦っている所、ちょうど農作業をしていたおじさんが目に留まり、目的の霊園の場所を尋ねると、 「口で説明してもわかりにくい所だから。私が先導するからついて来なさい」 と言って、仕事の手を休めて、ものかげに停めてあったバイクにまたがり、走り出しました。霊園へは確かにわかりにくい道で、すぐ近くかと思っていましたら、かなりの距離でした。
やがて、おじさんはバイクを止め、指をさして霊園入口の看板を教えてくれました。仕事中にもかかわらず、道案内をして下さったおじさんの親切に深く感謝しました。
「おじさん助かりました。本当にご親切に有り難うございました。」と、車から降りお礼を述べると、「和尚さんそんな気を使わないで下さい。今度和尚さんが困った人に出会った時、その人を助けてあげて下さい」と言って、帰って行かれました。
おじさんの温かい心とすばらしい言葉に出会い、私の心まで温かくなりました。その日私の心は温かく幸せな気分の一日となりました。思わぬところで幸せを頂きました。
今月の聖語の檀那とは「施しを行う人」、行者は「施しを受け行動する人」を意味します。上記の私の体験にたとえれば「檀那」は「見ず知らずの私に仕事中にもかかわらず案内をしてくれたおじさん」で、行者は「おじさんの助けを頂いて無事霊園にたどり着き、ご供養を行えた私」ともいえます。
おじさんの親切な施しの心の功徳は、無事にご供養を行た私だけでなく、供養を待っていたご家族や供養を受ける精霊にも繋がっているのです。
この様に世の中を見渡せば、このようにどんなことも支え合って成り立っているのがわかります。
私たちが今日いただいた食事にしても、今着ている衣服にしても、多くの方の力の支えがあるからこそ、今の生活が成り立っているのです。中には、労働力の対価としてお金を支払っているからという方もおりますが、そのお金も国がしっかりと成り立っているから紙幣価値が保証され、さらにはその国は国民みんなが支えているからこそ成り立っているのです。
私たちは、時には「檀那」となり誰かを助け、時には「行者」となり誰かを支えるのです。
日々を私たちは誰かに助けられ、助け支え合っている事を意識すると、助け合う温かい心が生まれ、その温かい心が自分はもちろん、世界中の人を幸せにしてくれるのです。