法 話
人の幸せは自身の幸せである
昨今、新型コロナウィルスオミクロン株が爆発的に感染が拡大し、今日明日にでも蔓延防止措置や緊急事態宣言が発令されようと捨ている状況です。思えば約2年前の新型コロナウィルス感染拡大から私たちの生活スタイルなどは一変した方が多いのではないでしょうか?
マスクを着け、手指を消毒し、人との間隔を空ける。また外出する事自体が減っている方も多い事でしょう。多くの方がウィルスに対しての警戒を今まで以上に強くされていることでしょう。
しかし、感染力が強いウィルスが蔓延する中であっても、多くの人が密集する中でマスクを着けずに大声で騒いだりする人たちもしばしば報道で見受けられます。恐らくはその日・その時の楽しみを優先した行動であるのでしょう。そのような行動の結果、新型コロナウィルスに罹患した方も多くいると聞いております。
人それぞれに様々な事情があったことであろうと思うと、その行動の是非については問いませんが、はたしてそれは、自分が行う行動に対して受ける影響、または他者に与える影響までを考えた受けでの行動であったのでしょうか?今、自分がが楽しかったならば良いというだけの浅い考えのであった人も多くいられたのではないでしょうか?
色々な影響を深く考えたならば、その場は自分だけが罹患したとしても、その後家族や友人、職場の方々など多くの人に強い感染力のウィルスをうつしてしまうかもしれませんし、病院の方へまた、病院を必要としている方へも影響を与えてしまう可能性も大いに考えられます。それだけでなく、自身の命も脅かしてしまう事となってしまいます。
日蓮大聖人のお手紙の中のお言葉、「浅きを去りて深きに就くは丈夫の心なり」の通り、浅き(個)の幸せをとるのではなく、深き(全体・他者)の幸せを考え行動することが大切であり、すなわちそれは仏の心であると述べられています。
人を想い行動すること、それはすなわち自身の幸せにもつながっているという事を、今一度再確認させていただけるお言葉です。
幸多き1年の秘訣
燈は油をさせば光を増し、草木は雨ふればさかう、人は善根をなせば必ずさかう。 【上野殿御返事】
明けましておめでとうございます。本年が皆様にとって幸多き一年となりますようお祈りいたします。
昨年を振り返り、私が真っ先に思い出したのは東京オリンピックである。一日何時間にもおよぶつらい練習、コンマ数秒のタイムを削るため、あるいはより美しい演技のため、あるいは1mmでも遠くに飛ぶため、およそ私たちが普段の生活では意識したこともないようなところにまで神経を研ぎ澄ませた努力が実を結んだ瞬間があのオリンピックの舞台である。選手達の真剣な眼差しや躍動する姿はキラキラしていて、まさに光り輝いてみえた。
努力なしではあの舞台にはたてない。私たちが思い描く「幸多き一年」もそうだ。
日蓮大聖人は、人は良いことをすれば必ず栄えると指南されている。善は種となり、根っことなる。まずは種をまき、大地に根をはろう。根っこが伸び、芽が出て生長し、花がさき、やがて果実がみのる。私たちの種は、他を思いやり、慈しむことで根をはり、芽吹き生長する。植物のように目に見える果実になるのはいつになるかわからないが、人の内面は日々様々に成長していく。だからこそ、長い目でみて、怠らずに意識し、行い続けることが大事である。意識はやがて習慣となり、習慣は人生という果実を実らせる。
1年は1日の積み重ね、1日は現在(いま)の積み重ねである。現在(いま)を大切にし、善い行いを積み重ねることで人としての魅力がまし、キラキラと輝きを放つ。そんな素敵な人になれるよう努力する1年なら、それこそ素敵な1年に違いない。
素晴らしい未来を築くために立ち止まる
以前テレビ放送で、世界各国で数々の潜水作業の仕事をしてきた優れた潜水士のドキュメンタリーが放送されていました。その中で、潜水士が以前に橋を建築した場所へ潜る機会があった時に見た現在の海底の姿は、橋を建築した当初の海藻が生い茂る海の姿ではなく、見渡す限り一面岩だらけという、まるで砂漠のような海の姿に変わっていたという話があった。
これについて、その潜水士は、橋の建造によって影響を受けた海流が起こした海水温の変化、またそれにともない、その海流が運んでいた栄養となる物質も欠如した事などが原因として考えられると分析。そして、その現実を目の当たりにし、一流の技術を持つ潜水士として今まで自分のしてきた行動が、地球規模でみて一流の自然破壊者でもあったと気付き、自分の行動に初めて罪の意識が生まれたという。これを機会に海を再生するために、ボランティアとして様々な活動をし、失われ続ける自然と向かい合いあうようになったと話されていた。
このように、現代の世の中では人々の暮らしを豊かにし世間から評価される事であっても、未来を考えると誤った考えである事がある。世の中の流れの大局が全て正しいと思い、大きな目で見ること・本質を自分で考えるのを止めてしまった結果なのです。
実は私たち一人ひとりにも例外なくあるものです。知らず知らずのうちのことなので、それと気づかず日々を過ごしてしまいがちです。しかし私たちは、皆がそうだからと行っていたことが誤りであったと気づいた時、自分の言動を改め他者にも伝える事ができます。
日蓮聖人の「永劫の善苗を植えよ」とは、正に世間の大局によって善悪を判断するのではなく、自身で未来の事までも考え、本当に正しい善悪の判断に基づき言動を行うように諭されたお言葉なのです。
この正しい善悪の判断を見極めるには、世間の流行や効率・便利さなど刹那的な考えではなく、2500年前から今に至るまで変わらず、そしてこの先の未来まで不変であるお釈迦さまの教えなのです。
自らの正しい行いが種となり、未来を素晴らしい世界という花を咲かせるように。家庭であっても、親の姿を見て子は善悪を知り、正しい言動を行える大人へと育つものです。
自分が気づかないうちに行ってしまった悪いことには、悪いことをしたという意識がありません。ですから悔いることもありません。言い換えれば、後悔しなければ、人は悪いとも感じないとも言えるでしょう。自分が悪いと気づいていないことは大変恐ろしいことではないでしょうか。「永劫の善苗を植えよ」を胸に、今一度自らを振り返ってみてはいかがでしょう。
令和3年11月 「此れより大海を亘つて佐渡の国に至らんと欲す」(寺泊御書)
「此れより大海を亘つて佐渡の国に至らんと欲す」(寺泊御書)
これは文永8(1271)年10月22日。日蓮聖人御歳50歳の時、まさにこれより、ひとたび配流されれば生きては戻れないと言われた佐渡島へと送られる前に書かれたお手紙の一節です。寒さ厳しく食料も乏しいと思われる地へと、ひとりで送られる。私ならば先行き恐ろしく不安な時で弱音を吐いてしまうであろうかと想像します。みなさまであったら、その様な状況であったら如何でしょうか?私と同じ心もちとなってしまう方が多いかと思われます。
しかし、聖語の文面を見てみて如何でしょうか?不安や恐怖は文面に現れているでしょうか?日蓮聖人は不安や恐怖を微塵も感じさせず、それどころか、むしろ堂々とされている文面ですよね。それは何故でしょうか?
日蓮聖人は、時の権力者などに命を狙われること4度。その他にも数え切れないほどの迫害を受けながらも、法華経・お題目を弘めてこられました。まさに自らの命を賭してまで布教をされたのは、自らの行動を「お釈迦さまの正しい教えを実践する者は数々の迫害を受ける」と記された経典と照らし合わせ、自らの布教こそが正しいものであるとの確証されたからなのです。
ですから、佐渡への配流前に書かれたお手紙でも、恐怖や不安は微塵もなく、堂々とされておられるのです。さらには、この佐渡流罪も経典に示されている通りの事であり、益々自らの布教の正しさを深く確信して行ったのです。
日蓮聖人は自らの活動を、「ただ妙法蓮華経の七字五字を日本国の一切衆生の口に入れんと励むばかりなり」と言われています。
お釈迦さまの正しい教えである法華経・お題目を、只々多くの人々の救うために。それも当時の人だけでなく未来の私たちの為にも、その先のまだ見ぬ私たちの子供たちの為に、自らの命を賭して弘められてきたのです。
日蓮聖人の今を生きる私たちへの深い慈悲を想い、私たちからも日蓮聖人への報恩感謝のお題目を捧げましょう。