法 話

2023-09-03 12:38:00

仏の種を育てるお題目

今月の聖語 

   

生死を離るる身とならんと思ひて候

 

日蓮大聖人ご遺文「妙法比丘尼御返事」

 

このお言葉は日蓮大聖人が出家される時の決意が示された一文であります。

生死を離れる身とならんとは、生死生死と流転していく苦悩多き凡夫の身のことであり、その凡身を離れるとはすなわち安心(あんじん)の境地に至り成仏することであります。さらには、大聖人自身だけでなく、全ての人々の仏の種が芽生え仏へと至るようにとの決意が示されています。

悟りや成仏・到彼岸などという言葉も同じ意味と言っていいでしょう。

こういう言葉を並べると、私たちは、自分とはまったく無縁な別世界のことのように思いがちです。

 

しかし、すべての人の中には仏になれる種が仏さまからすでに頂いているのです。だから、その種子を見いだし育てることによって安心の境地に至れるのです。芥川竜之介の小説「蜘蛛の糸」に出てくるカンダタのような悪逆非道の人間でも、蜘蛛の命を一瞬でも憐れむ気持ちが生じたのです。その一片の人間らしさ…それが仏性です。

 

そして日蓮聖人は「南無妙法蓮華経」のお題目によって仏の種を育むことになるのだとお示しになりました。自分は悟りを得ることが出来ないと卑下したり、他者を誹謗中傷したりするとき仏の種は発芽に至りません。

「南無妙法蓮華経」と唱えると、仏の種が芽を出します。

私たちはその芽を大事に育て、自分も世の中も幸せになるように努めなければなりません。

 

時には何が正しいのか見えなくなり、先行きの不安や疎外感を抱くこともあるでしょう。そのようなときにこそ、心の中の仏の種を育むように、お題目を唱えることが大事なのです。

まもなく秋のお彼岸の時期です。ご先祖さまや亡き方に手を合わせながら、皆さまの心に下された仏の種が育っていることを感じてください。

2023-08-01 00:00:00

自らの心から生まれている幸せと不幸せ

今月の聖語 

   

餓鬼は恒河を火と見る

 

日蓮大聖人ご遺文「曽谷入道殿御返事」

 

私たちが見つめる世界は、たとえ変わり映えしない景色や日常であっても、決して同じ瞬間はなく、絶えず移り変わっています。それは物質的なことだけではなく、私たちの心もそうです。私たちはその絶えず移り変わる心を通して物事を見つめていますから、その移ろう心を通して見える世界もまた常に変化していきます。

たとえば、抜けるような青空を見たとき、心も晴れやかであれば「気持ちいい空」になりますが、心に影が差すようなことがあれば、どれだけキレイな青空でも曇って見えてしまいますし、時には晴れている空を憎んでしまうことさえあります。

同じ物や景色・境遇でも、自身の心の状態によって見え方は変わってしますのです。

 

上記のご遺文は、渇きを癒やすはずのガンジス河の水も、欲望に支配された餓鬼の心の時は火に見え、人間として平穏な心で見れば、そのまま水と見え、喜びに満ちた天人には甘露(不死の飲料)に見えると述べられています。

仏事でよく読む自我偈。その1つひとつの文字は、私たちにはただの文字にしか見えないが、仏さまの教えを信じて見れば一文字一文字が仏さまであることに気付くのです。

 

何故自分ばかりが・・・と嘆く言葉を耳にする言葉でありますが、それは自身の心が作り出している不幸なのであります。同じ貧しい境遇であっても、自分だけが貧しく不幸なのだと下を向いて歩む人生と、貧しくても今日も食事をいただけなんとも有難いことだと上を向いて感謝の心を持って歩む人生。どちらが幸せな人生でなのしょう?

 

両親やご先祖さまからバトンをいただき、多くの方々のお陰を以て日々生かされていることに感謝し、心豊かな人生を歩んでいきましょう。

2023-06-05 12:31:00

思い切りよく進む為に

日蓮大聖人ご遺文

今月の聖語

   各々思い切り給え

         日蓮大聖人ご遺文『種々御振舞御書』 

春の訪れを華やかに彩っていた桜もすっかりと葉桜となり、木々の葉をいっそう青々と濃くさせる季節。青梅雨の訪れと共に紫陽花が美しさを増す時期です。花の移り変わりと同じく、私たちも桜とともにスタートした新年度から2ヵ月程が経ちました。学校や職場や役職、または人間関係など色々な環境に変化に、最初は戸惑っていた皆さんも、少しづつその環境に慣れてきたころではないでしょうか?

 

新たな環境に慣れてくると同時現れるのは、期待や希望と同時に、不安や悩み・苦しみです。私たちは自分の思い描く良き未来へと進むためには、種々の決断をしなくてはならないのです。時には、環境が一変してしまうような決断をしなければならない時もあります。

 

様々な決断をする時、思い切りよく決断できるにこしたことはありません。しかし迷いが生じて、煮え切らないこともあります。気持ちの整理がつかず混乱し、時にはやる気や元気を失ったりします。そんな時、皆さんならば何を基準に判断をしていますか?

 

表題の「各々思い切り給え」。日蓮大聖人は財や名誉をかえりみず、その命を賭してまで突き進んだ道はお題目を弘める事でありました。それは、多くの人々を救いたいとの生涯揺るがぬ信念のもと進んだ道であります。

 

時勢や環境に左右され、自分自身の考えや信念を忘れ突き進んでしまった後、「なんであの時こうしなかったのか」と後悔してしたことが私には何度かあります。

悩み迷い判断が難しい時は、一度立ち止まり冷静になって初心にもどり、自身の信念や想いが何であったか。また、その決断が本当に良い事なのかを見つめなおしてみては如何でしょうか。

 

揺るがぬ信念のもと、本当に良いと考える道を思い切り歩んだ先には、花々のように人々の心を惹きつけ笑顔をもたらし、その信念は種となり多くの人々の心に芽生える事でしょう。

2023-06-05 12:31:00

思い切りよく進む為に

今月の聖語         

     各々思い切り給え

             日蓮大聖人ご遺文『種々御振舞御書』 

春の訪れを華やかに彩っていた桜もすっかりと葉桜となり、木々の葉をいっそう青々と濃くさせる季節。青梅雨の訪れと共に紫陽花が美しさを増す時期です。花の移り変わりと同じく、私たちも桜とともにスタートした新年度から2ヵ月程が経ちました。学校や職場や役職、または人間関係など色々な環境に変化に、最初は戸惑っていた皆さんも、少しづつその環境に慣れてきたころではないでしょうか?

 

新たな環境に慣れてくると同時現れるのは、期待や希望と同時に、不安や悩み・苦しみです。私たちは自分の思い描く良き未来へと進むためには、種々の決断をしなくてはならないのです。時には、環境が一変してしまうような決断をしなければならない時もあります。

 

様々な決断をする時、思い切りよく決断できるにこしたことはありません。しかし迷いが生じて、煮え切らないこともあります。気持ちの整理がつかず混乱し、時にはやる気や元気を失ったりします。そんな時、皆さんならば何を基準に判断をしていますか?

 

表題の「各々思い切り給え」。日蓮大聖人は財や名誉をかえりみず、その命を賭してまで突き進んだ道はお題目を弘める事でありました。それは、多くの人々を救いたいとの生涯揺るがぬ信念のもと進んだ道であります。

 

時勢や環境に左右され、自分自身の考えや信念を忘れ突き進んでしまった後、「なんであの時こうしなかったのか」と後悔してしたことが私には何度かあります。

悩み迷い判断が難しい時は、一度立ち止まり冷静になって初心にもどり、自身の信念や想いが何であったか。また、その決断が本当に良い事なのかを見つめなおしてみては如何でしょうか。

 

揺るがぬ信念のもと、本当に良いと考える道を思い切り歩んだ先には、花々のように人々の心を惹きつけ笑顔をもたらし、その信念は種となり多くの人々の心に芽生える事でしょう。

2022-07-04 12:08:00

父母への報恩

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今月の聖語は上野殿御返事の「父母の恩のおもき事は大海のごとし」というお言葉です。

日蓮聖人の御遺文にはよく「恩」という言葉がでてきます。これは日蓮聖人が「恩」をとても大事にしていたからです。

恩とは「めぐみ」「いくつしみ」、あるものが他に生命を与えたり、その発展を助ける事であり、人はその恩を受けたり施したりして、その恩と密接にかかわってきました。そして日蓮聖人はその恩の中でも特に大切にしている四つの恩があります。その中の一つが父母に対する恩です。

各ご家庭にご先祖さまをはじめ、父母やご家族の精霊を迎える盆の季節が間もなくやってまいります。殊に新盆を迎えられる方から、「生前、もっと色々なことをしてあげたかったですよ。あまり親孝行ができず、それが心残りです」との言葉をよくお聞きします。

「親孝行したいときに親はなし」との言葉もありますが、では父母への孝養に篤かった日蓮大聖人はどの様におっしゃられているでしょうか?

十王讃歎抄にて「孝養に三種あり。衣食を施すを下品とし、父母の意に違わざるを中品とし、功徳を回向するを上品とす」とおっしゃられています。

生前、父母の生活の面倒などを見ることよりも、父母を安心させる生き方をする事が父母への孝養である。しかしもっとも重要なことは、父母が亡くなった後に丁寧に回向を捧げることが最上の親への孝養であるとおっしゃられています。

また、今月の聖語の一節の後には、私たちに命を与え育ててくれた父母へ生きている間に返せる恩は大海の中の1雫ほどである。父母亡き後に回向を捧げ続けることが本当の報恩であるとおっしゃられています。

先の話にあった、「親孝行したいときに親はなし」ではなく、本当の親孝行とは父母を亡くした後いかに供養・回向を行うかであるのです。

亡き精霊へ回向を捧げても、捧げずとも精霊からは何も聞くことはできません。しかし、何かを行って「ありがとう」の言葉を聞くから行うのではなく、本当の報恩とは何も言われず反応も無いけれども、自分の感謝の想いを行動にして行っていく事ではないでしょうか。

 

まだ、遅くはありません!本当の父母への、志す精霊への報恩の孝養を行っていきましょう。

 

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